令和への改元に想うこと

皇位継承にともなう改元により、新元号の「令和」が発表されました。

正直なところ、新元号が発表されるまでは、もう和暦は必要ないと思っていました。
和暦と西暦の併用に、特段の意味が見いだせていなかったのです。

しかし、いざ新元号「令和」が発表されると、和暦の存在がとても心地よく感じられ、日本人として必要なものに思えました。

漢字2文字で構成される元号。
漢字を2つ並べて、そこに意味を見出そうとする想像力豊かな日本人の独特な感性。

この独特な感性こそ、日本が今後のグローバル社会で存在感を示すために必要なものではないでしょうか。

日本人の信条は「察しと思いやり」とどこかで耳にしました。

相手の言動から想像力をはたらかせて意図をくみ取り(察し)、相手の望むことを行う(思いやり)。

元号に意味を見出そうとする姿勢は、「想像力をはたらかせて対象から何かを読みとろうとする」点において、察しと思いやりの精神に共通します。
今日、訪日外国人に、察しと思いやりの文化である「おもてなし」が喜ばれているところをみると、この日本人の感性こそが諸外国との大きな「違い」であり、競争社会において優位性をもたらすものだと思えます。

話は少し変わりますが、今回の改元にあたって「和暦不要論」をネットニュースやSNSなどで数多く見かけました。
それだけ和暦の存在に意味が見いだせない人が多いのでしょう。

以前、廃れゆく伝統工芸をインターネットを活用して残そうとするプロジェクトの相談を受けたことがあります。
相談を受けたとき私は「廃れゆくということは、誰からも必要とされていないのでは?」と思いました。彼らのやろうとしていることが、とても不毛なものに見えたのです。
当時の私は近視眼的な経済合理性からしか、モノの要不要を判断できぬ浅はかな人間でした。

今ならわかります。
残そうと必死に働きかける人がいる時点で、その伝統工芸は必要とされていたのです。

たしかに経済合理性からは、その伝統工芸が残り続ける理由はなかったかもしれません。
しかし、目に見えぬ気持ちや想いがそこにはあり、その伝統工芸を残すにはそれで十分な理由になり得るのです。いや、むしろ「残そうとする人がいる」、これは経済合理性などよりもっと素晴らしい理由です。
「金になるから生きていてもらいたい」よりは、「あの人にはただ生きていてもらいたい」のほうが素敵です。

当時の私は、経験不足で察することができず、思いやりのない言葉を放ってしまったかもしれません。
若さゆえの過ちだったと言い訳しつつ、不寛容だった自分を反省する次第です。

和暦についても同じです。
たとえ経済合理性がなかったとしても、誰かの「残したい」という気持ちがあるのであれば残してよいのではないかと私は思っています。

そして令和を迎えた日本が、誰かのそんな気持ちに応えられる寛容な社会であったらいいな、と思います。